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初代勘次郎  土仏観音堂(石鳥谷・1846)

橋本雪蕉作  筆俳人画像


◆ 2人の名匠の作風に、影響を与えた、初代、勘次郎と画人、橋本雪蕉

  江戸時代、我が国の木造建築の技術が高度に発達した原因に、@工具の工夫が、あげられます。部材を精巧に仕上げるため、用途に応じたさまざまな工具が工夫され、これらを駆使して精巧な継手や仕口が作られ、木造技術が最高水準まで達しました。又、A特定の名家(大工家系)のみに秘伝として守られていた木割・規矩の技術の公開、秘伝とされた技術が木版本として出版・普及したため、大工の高い技術の修得が可能となりました。この様な時代背景の時、初代高橋勘次郎は、寛政6年(1794)、花巻の同心、釜津田藤左衛門の次男として生まれ、18歳で親の反対を押して、伊達藩古河の彦右衛門、加賀藩金沢の喜兵衛、衣川の源太夫、等々の門下で修業、大和流の建築や彫刻と算術を学び、規矩術を修め、この時期に、釜津田から高橋となり、江戸後期の流行した彫り様を、仙台・金沢時代によく研究し、独自の勘次郎の大和流の建て物と彫刻をしたと言われております。


  ここで、勘次郎より9歳違い亨和2年(1802)生れの、呉服商釜津田藤右衛門の4男、素淳を紹介いたします。釜津田素淳は、のちに、南画の境地をきわめる、橋本雪蕉と成るのであります。素淳つまり雪蕉は、人物・山水を問わず詩情あふれる静謐で気品に満ちた画風で、各地を「遊歴」し、そこでの師との交流によりその画風をきわめるのです。江戸で谷文晁、京都で浦上玉堂の子である春琴に師事、さらに鎌倉の建長寺で、水墨古典画の模写と、ひたすら画業に打ち込み、「詩画一如」ともいうべき南画における境地をきわめ、明治10年(1877)76歳で亡くなりました。江戸から京都、鎌倉、そして浅草で弘化2年(1845)南画人として名声をほしいままにし、慶応4年(1868)67歳で23年間居住した江戸浅草を去り、八戸へ居を移しました。この間、初代勘次郎、二代目勘次郎と橋本雪蕉は、ともども花巻川口町出身で親交がありました。雪蕉は、2人のために何度となく彫刻のための下絵を描き彼等の彫刻の手助けをしています。初代勘次郎は、棟梁たるものは「すべからく絵を学ぶべし」という考えを持っていて、そのことは二代目、および弟子の小原樗山(喜代治)にも継承されます。特に樗山(胡四王神社本殿の作者)は、雪蕉の門人である菊池黙堂に師事して絵を学んでいます。ここまで、初代勘次郎と橋本雪蕉の話しを詳しくしましたが、実は、この2人、9歳違いの兄弟であったという説があります。生前の二代目勘次郎を良く知る松川他次郎が明治35年(1902)に作成した「名匠高橋勘次郎二世之碑」(松川家文書の文面にその内容がある)に、照らしあわせた結果という説を支持する方が多くなっていることからであります。つまり2人は釜津田家から出た、兄弟であるということです。2人は、建築と絵画の分野で、江戸の文化を現在に伝えた郷土の偉人であります。


 
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